今までいちばん楽しかったのは何歳?
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一番楽しかったのは何時だろう?
単純に楽しかったと言えば、中学三年間。愛媛の田舎に住んでいたので、高校に進学するのにあまり勉強する必要がない。それで部活動(テニス)の他は次々と悪戯(ただしユーモアを失わない)を考え実行に移し、ダジャレを連発して女子の人気を得ていた。
けれど、「楽しかった」には「充実していた」ということが含まれていないといけないような気がする。たまたま自分が楽しい環境に置かれただけなのではなく、自分が何かしら成長したという実感を持ちたい。
充実していて楽しかったのは、悩むけど高校三年生(17歳。誕生日が3月末なので)かな。
僕の高校三年生はこんな風でした。
第一部 クラス対抗戦
僕の通っていた高校は、愛媛県の南に位置する宇和島市にある。僕達のクラスは40人中男子が38人いる。かつ、1年から3年まで同じクラス。男子が多いので自然と運動のつわものが多い。クラスが同じなのでチームワークも良い。ということで、ボート、バレーボール、サッカーのクラス対抗試合はいつも優勝していた。けれど、裏を返せば、クラス代表になるのが難しい。1年の時に優勝したメンバーが2年、3年もメンバーになる確率が高い。僕は1年、2年は応援だった。
3年になって最初のクラス対抗のボートレースがやって来た。ボートレースは僕達の高校では歴史のある競技で、ボートレースの応援歌の練習があるほどだ。
一度でいいからボートを漕いでみたいと思っている人が意外に多く、「クラス対抗は勝つためだけにあるのか」と予想外の人が主張したりして議論白熱し、3年のボートレースのメンバーは何とジャンケンで決めようということになった。僕は運よくジャンケンに勝ちボートレースに出場することになった。
ジャンケンで勝ったメンバーを見ると僕も含めて、勝てそうな顔ぶれではなかったが、皆とても嬉しそうだった。
ボートレースに出るには練習しなければならない。なにせ全員がボートを漕いだことがない。授業が終わった後、ボート部員の指導のもと、オールを握り宇和海に漕ぎだした。なかなか速く進まないが、僕達はボートを漕いでいるんだということが、無性に嬉しかった。
レースではコックスになるオオキも練習ではオールを握った。もっと漕いでいたかったが暗くなると危険なので岸に戻る。ボート部の応援歌に”佐田の岬に沈みゆく、燃ゆる夕日を背に浴びて”という節があるが、宇和島から見ると佐田岬は北にある。この日も夕日は西の九州の方に向かって沈んで行った。
クラス対抗レースは1回戦で負けた。応援のし甲斐がないので、ボートに乗れなかったクラスメイトはブーブー言っていたが、僕はうしろめたさはあまり感じなかった。
ボートレースの次のクラス対抗はバレーボール。バレーボールはターザン、オーツカ、ムラシゲ君、タカダ君らつわものがいて1年、2年と優勝していた。今年も優勝は堅いと思われた。そこで、面白い意見が飛び出した。今まではクラスで1チームだけだったが、チーム数を増やして出たい人は全員出れるようにしようということになった。結局常勝軍団のAチームの他に、Bチーム、Cチームを作った。BチームとCチームはジャンケンで決めたので技量の差はない。僕はBチームで出場することになった。
Bチームは1回戦、2回戦を勝ち上がった。僕達のクラスは3限目と4限目の間に早弁して、昼休みの一時間を夏はバレーボール、冬はサッカーの練習に当てていた。僕は皆勤賞があればもらえるくらい熱心に参加し、その甲斐あって3年になるとバレーボールのスパイクが打てるようになった。1回戦、2回戦でいくつかのスパイクを決め、準決勝も突破すれば、AチームとBチームで決勝を戦うという夢のような出来事になる。
しかし、そううまくは運ばなかった。僕は2回戦が終わった時点で疲れてしまい、スパイクの押さえが利かなくなっていた。準決勝の最後は、僕のスパイクがアウトして終わった。トッチャンが「スパイクが浮いてるぞ」注意してくれたのに、チームの皆に申し訳ないと思った。Aチームは楽勝で優勝した。
3年最後のクラス対抗はサッカーだ。サッカーも僕達のクラスは1年、2年と優勝しており、3年でも当然優勝を狙っていた。サッカーはターザン、ジョージ、ユウスケの3人を軸に戦って来た。
ちょっと横道にそれるけど、ターザンとは勿論ニックネーム。スポーツ万能で筋骨隆々としていることから、いつからか皆そう呼ぶようになった。ボート、バレーボール、サッカー、水泳で大活躍する。あまり得意でないのは、バスケットボールと持久走くらい。
本題に戻って、サッカーのメンバーの決定はこの3人を中心に誰を絡めるかが鍵になる。サッカーも僕は毎日早弁をして練習に参加してきたけれど、11人に選ばれるかどうか難しいところだと思っていた。だから、メンバーに選ばれた時は、日々の早弁の成果が認められたのだと、とても嬉しかった。
サッカーは小が大を食うことがしばしばあるスポーツ。だから3連覇はそう簡単ではない。けれど、軸となる3人の活躍で、決勝戦に進出した。それまで、僕は十分な活躍ができていなかったが、決勝戦ではゴール前のごたごたに乗じて左足のへぼシュートを決めた。結局、決勝戦は2対0で勝ち、3連覇を達成した。僕はゴールを決めたことより、皆とプレーできたことの方が嬉しかった。
そういう訳で、高校最後の年に3大クラス対抗に出場させてもらったことは生涯忘れない。多分、一緒にボートを漕いだ人達も、バレーボールでBチーム、Cチームに選ばれた人達も、僕と同じくとても嬉しかったと思うよ。
第二部 サイクリング
高校3年の夏休みにユウスケ、オーツカ、ヘイジと僕の4人で2泊3日のサイクリングをした。コースは宇和島からいったん四万十川の支流を遡り、それから四万十川を海まで下った後、宿毛に出て国道55号で宇和島に帰るルート。学校では英語の補講が組まれていたが無視した。
まだ朝もやが残る中、3人が僕を迎えに来た。3人の自転車は当時の一般的な通学用自転車。今のママチャリをもっと丈夫にしたような感じ。僕の自転車は唯一ドロップハンドルでギアが付いているが、崩壊寸前で走るとブルブル震える。一応ギアがついるので、テント他の重い荷物は僕の自転車に載せた。
朝の涼しいうちに四万十川の支流まで登ってしまい、太陽がこれでもかとガンガン照りつける頃には四万十川を下る道を走っていた。四万十川を右に見ながら下る。所々で木々が覆い茂ってトンネルになっているところがあり、そこを走るとひんやりして気持ちがいい。僕は、大場久美子のエトセトラを口ずさみながらカッ飛んだ。
一泊目は四万十川を海まで下った近くの砂浜にテントを張った。疲れているのだが、なかなか寝付けない。ヘイジと砂浜に出て座った。海は漆黒で、そのまま空に続いているようだ。一面の星が空と海を分けている。
「星の数とこの砂浜の砂の数とどちらが多いやろうか」ヘイジが訊いてきた。「そうやね、よう分からんけど星の方が多いんや無かろうか。星の数は無限言うけんね」僕がこたえると、ヘイジは砂をつかんで指の間から少しずつこぼしながら、「ここの砂も多いがのう」と納得がいかないようだった。
何するでもなくしばらく星を見ていたらヘイジが「ナカガワは大学どうするん」とちょっと真剣な感じで訊いてきた。高校3年の夏、そろそろ進路を決めなければならない時期に来ている。
僕は「物理をやりたいけん理学部に行こうと思うとる」と答えた。そうしたらブルーバックスで読んだ相対性理論の話になった。ロケットに乗っていた双子の兄の方が弟より若くなるとか、光も重力により曲げられ極端な例がブラックホールであるとか。受験勉強には全然役に立たない知識だけど結構皆知っていて、話していると面白い。いつまでも話していそうだったが、明日もあることなので話を切り上げ立ち上がった。立ち上がりながらヘイジが「物理は面白いのぉ」とボソリと言ってくれた。
二日目の午前中に、中村から宿毛まで走った。一本道で見るべく景色はない。ただ走るのみ。時々ダンプカーが砂埃を撒き散らして追い越して行く。ただ忍耐あるのみのつまらない道だったので、宿毛に着いた時はほっとした。
しかし、試練はこの後も続いた。この日は須の川にテントを張ることに決めていた。須の川へは宿毛から国道56号を北上することになる。海岸線の道なので、海も見えるし海からの風が気持ちよく走れるはず。最初のうちは海が見えて気持ち良かったが、走るうちに思惑が外れたことに気がついた。
この辺りはリアス式海岸で、陸地が海に向かって飛び出ている小さな半島と、二つの半島に囲まれた入江の繰り返し。入江には集落があり、船が係留されている。
小さな半島を越えるのは、ちょっとした峠を越えるくらいきつい。上り坂の途中で降りて歩きたくなるのを堪えて、半島のてっぺんまで登る。今日も太陽はギラギラでサドルの上で意識が薄れていく。やっと半島のてっぺんまで登ると、後は入江に向かってジェットコースターのように下っていく。
下るのは気持ちいいのだが、半島を登りきった時点で次の半島が目に入る。またかよ。後いくつ半島を越えればいいのだろう。別に競争している訳ではないので、休めばいいのだが、なぜか限界まで行ってみたい気持ちが勝つ。フラフラの状態で須の川には一番乗りをした。ファミレス見たいなのがあったので、かき氷を食べた。味を覚えていないくらいうまかった。
ヘイジが二番目にやってきた。ヘイジもフラフラだ。
ユウスケとオーツカは、しばらく時間がたってから二人一緒に到着した。何でもオーツカが途中で気分が悪くなったので、ユウスケが付き添って走ったのだ。
ユウスケはなんて偉い奴だと僕は思った。限界に挑むという名目のもと、自分勝手に走った自分がとても恥ずかしかった。それに二人で並走して来たなら、一人の時の倍の思い出ができたのじゃないかな。
皆疲れていたので、須の川の夜は泥のように眠った。
最後の日は、国道56号を北上し、津島町から宇和島に戻って解散。この日の難所は松尾峠。
津島町と宇和島を隔てる松尾峠は今ではトンネルになっているが、当時は一山越えなければならない。峠と言うより山。僕らは自転車を押して歩いた。途中でバスが追い越していく。見ると、僕らと同じ高校の他のクラスの3年生が驚いたようにこちらを見ている。彼らは今日も補講だ。僕らは、胸をそらしてニヤット笑って見送った。
秋になって僕らは、受験勉強の日々を過ごした。時に励ましあい、時に競い合い、少年マンガの「東大一直線」を読み合って「パーペキ、パーペキ」と騒いでいるうちに、あっという間に年が明け、共通一次試験、大学入学試験と続いた。
僕は一浪して理学部に進み、その後会社員になった。ヘイジは工学部に進学したが中退して、生まれた島に戻り漁業を継いだ。ユウスケは福岡の山奥で医者をやっている。オーツカは教育学部に進み、今では教頭先生だ。







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